子供が親の事を◯◯ちゃんとか、△△くんと呼ばせる親がいることが話題になっています。
これに対して、親と子供が友達感覚というのは、子供が大人に対する距離感を間違えてしまうとか、子供の指導者という立場から好ましくないという批判がみられ、あまり良くないものだと考える人が多いようです。
しかし、人の親になるということは容易なことではありません。結婚のあり方が代わり、「できちゃった婚」が増えたことで、親としての準備ができていないまま親になるケースが増えました。そんな中、「子供の友人として共に生活する」というのは、正しい子育てを行っていくための苦肉の策のように思えます。
形式的に親になるのは簡単です。子供を産むだけです。しかも、子供産むための行為は至極簡単で、そのハードルはその行為の重さに対してかなり低いです。
一昔前であれば「できちゃった婚」は許されない行為でしたが、今では比較的それが許容される傾向にあります。そして、段々と「親になる」という行為の重さが軽くなっていき、「できちゃった婚」に関わらず、親になる自覚がないまま親になる人が増えた様に思います。
親になる自覚というのはなんぞや、という話ですが、これはある意味「教育者」になる自覚といえます。何も知らない一人の人間にモノを教え、育て、人生に責任を持つ。これは本来なら相当な覚悟と準備が必要なことです。しかし、なし崩し的に親になってしまった親はそんな覚悟なんて出来ていません。
準備が出来ていなくても、親になったら子供は育てなければいけない。
そんな親たちは教育者というのがどんなものなのか考えたことも無いでしょうし、親としてどんな立場で子供に接したら良いのかもわからない。本来であれば、そこで「苦労しながらも一人の親になる」というプロセスを経るべきですが、これはこの段階ではリスクの高い行為です。
親になる準備が出来ていなかった親から考えれば、これは「背伸びをする」ようなものであり、下手に親になろうとして足掻いた結果失敗してしまう可能性も十分に考えられます。
そんな時に、苦肉の策として用いられるのが「友人として立場」なのではないでしょうか?
友人であれば誰しも十分な経験もありますし、子供との距離感も掴みやすいです。つまり、「親にはなれなくても友人にはなれる」ということで、友達感覚の家族というあり方が模索されたのではないでしょうか?
もちろん、中には「友達感覚のほうが本音で話ができる」という意見もありますが、これは「ちゃんとした親であれば出来る」ことです。子供の頃から親として親身になって接し、指導者の立場でありながら本音で話せる関係というのは十分に模索可能な道でしょう。
しかし、それが誰にでも出来る簡単な事ではないからこそ、「友達」という立場が考えられたわけです。
奨励されるべき方法ではありませんし、可能なかぎり「親」になって欲しいものですが、現時的に考えて急に「教育者になる」のが難しい人もいるでしょう。そんな時に「友達」になるというアプローチは、ある意味無理して親になるよりも賢明な道なのかもしれません。