ジブリのアニメ「思い出のマーニー」のプロデューサーを務めた方が「女性は現実主義的で男性は理想主義的だから、理想主義的なアプローチが大切なアニメ監督に男性の方が選ばれてきたのは偶然ではない」という旨の発言をしました。これが海外のメディアで差別発言だとして問題視されているそうです。
女性は現実主義という話は昔から聞きます。もちろんこれは傾向に過ぎませんし科学的根拠があるかも怪しいですが、時々耳にする考え方です。真偽はともかく、これは本当に差別発言なのでしょうか?
男女差別に敏感なこのご時世でメディアに対して「女性は◯◯」という発言をする事自体が迂闊なのはその通りです。また、「女性は現実主義的」というのが偏見に過ぎず、これを根拠に「男性の方がアニメ監督の適性がある」と言ってしまったのも失敗だったかもしれません。「偶然ではない」とぼかしているつもりかもしれませんが、これは意図的に選んでいると捉えられても仕方ない言い方です。
そうだとしても、これに限らず、「女性は◯◯で男性は◯◯」という発言自体が差別発言として取り上げられる事が多く、会話の中で時々使ってしまう事がある人からするとなんとなく引っかかる部分があるのではないでしょうか?
この事例から、どうして「女性は現実主義的」が差別発言だと考えられてしまったのかを考察しましょう。
男女差別というのは「不当な理由によって男女を分けて考えること」を指します。また、それによって不利益や不平等が生じてしまうことも要件に含まれることがあります。
「アニメには理想主義的なアプローチが必要」だとプロヂューサーが考えること自体には何の問題もないでしょう。これは単なるプロヂューサーの意見ですし、アニメや映像作品というのは個人の考え方が如実に現れるものです。「女性は現実主義的」というのが仮に事実だったとすると、理想主義的な男性がアニメ監督に選ばれ易いのは不当な理由とはいえなさそうです。
ただ、実際には全ての女性がそうだというわけではありません。そもそも、性格的に「現実主義的」だったとしても「理想主義的」なアプローチで作品を作る事はできるでしょう。また、女性のアニメ監督は少数派ではあるものの皆無ではありません。人間である限り、「傾向的なものは是正出来る」のです。
当然ながら、この発言が男女にまつわる事ではなく「国籍」や「出身学校」によるものだったとしても、民族差別や学歴差別として成立してしまうでしょう。
要するに、人間に関することで「◯◯は☓☓」と言うだけでそれは「差別発言になる」のです。
これは別に極論しているわけではなく、ごくごく当たり前の事実であるはずの「病人は病気を他人に伝染す」というのも同じです。適切な処置をとれば伝染しませんし、必ず感染するわけではありません。とすると、これも差別でしょう。
もちろん、病気が伝染することによって誰かが著しい不利益を被る場合には「公共の利益」が優先されて隔離されることもあります。このケースの他にも、「女性専用車両」のような一種の逆差別措置なども一方の利益が十分に大きいとして許容されることがあるでしょう。
これを気にしていては何も言えないわけですが、「差別」というのは本質的に根絶が難しいです。
性別があるかぎり、文化が違う限り、能力が違う限り、「傾向」というのは明らかに存在します。その傾向を活用して経済活動を行おうとする組織や人間は無数にいるわけで、一方に著しい不利益を与えないかぎり許されているのが現実です。
「差別は良くない」というは正しいことですが、世の中見てみると差別だらけです。
そのため、差別を考える上で大切なのが「何が許されるか」という許容ラインの判断でしょう。男女差別といえばイスラム教が相当な差別をしているわけですが、これはイスラム圏では当然許容されているものです。
安易に「差別」と騒ぎ立てるのではなく、差別によって誰が傷つくのかを考えるのが大切ですね。
今は男女差別に敏感な時代であり、実際にその人に不利益があるかないかに関わらず、差別的な発言や行為によって傷つく人がいます。許容ラインは極めて低いので、慎重な対応が必要でしょう。