中国がパラリンピックで金メダルを量産しているというニュースを聞いて、「さすがだ」と思った。それと同時に、「いくらなんでも多すぎないか?」とも思った。そこで、少々偏見に満ちてはいるものの、その理由について考えてみた。
人口が多くて経済力がある
人口が多いだけならインド辺りもメダルを量産していないとおかしい。ところが、インドはそれほどメダルを取っていない。当然ながら、選手を育成するための資金や体制づくりも重要になる。
中国はかなり前からオリンピックやパラリンピックを中心とした選手育成に力を入れていて、膨大な人口の中からスキルのある人間を探し出して、軍隊式で集中育成するようにしている。
しかし、オリンピックやパラリンピックにはサッカーや野球のように興行として高い利益を生めるスポーツもある一方で、興行として殆ど成立せず、支出ばかりが増える競技も多い。もちろん、競技に使う道具や施設の利用費で利益が出る競技もあるかもしれないが少数派だろう。
基本的に、オリンピックやパラリンピックの競技に投資をしても直接的な金にはならない。収益に繋げるためには広告効果などを狙って間接的に収益に繋げる必要があるが、それにはその競技が自国で話題になっていないと意味がない。
経済的に余裕の無い国は、どうしてもオリンピックやパラリンピックの選手育成にお金を使えないのだ。
生き方の選択肢が少ない
これに関しては、正直なところ偏見に満ちている。
しかし、私は個人の認識として、中国人は日本や米国で生きる人に比べて不自由なのではないかと思う事が多い。果たして、中国で「生き方の選択肢」は充分に提供されているのだろうか?
これは「生き方の選択肢」が少ないことを前提とした意見だが、中国で「運動に才能があった人」にどれくらいのチャンスが与えられているのだろうか?
中国ではオリンピックやパラリンピックの育成に力を入れている。それは良い。
しかし、貧しい農民に生まれた人間が「何らかのスポーツに才能があった」場合、国から強化選手にならないか?と言われて、他の選択肢を選べるのだろうか?
もちろん、「NO」と答えることはできるはず(できないかもしれない)だ。しかし、「YES」以外の選択肢を選んで豊かな暮らしができる可能性はどれほどだろう? 殆ど選択肢はないのではないだろうか?
そのため、都会で暮らす裕福な中国人ならともかく、中国の貧困層にとっては「オリンピック競技が全て」というケースも多い。そうなれば必然的に必死になる。
日本人の企業お抱えの選手は、競技に負けても暮らしには困らない。あくまで、「自分が好きだから」「メダルを取りたいから」競技に打ち込む。しかし、中国人は違うのかもしれない。「生活が懸かっている」「家族の未来が懸かっている」中で戦っているのかもしれない。
本当に必死で、本当に努力している人間の力は凄まじい。
こういう背景があったのだとしたら、中国が強いのも頷ける。
パラリンピックでは更に必死になる
パラリンピックは障がい者のための競技だ。日本でもアメリカでも、先進国ではこうした障がい者に対する支援体制が整っており、どんな人間でもある程度の暮らしはできる。しかし、中国は違う。障がい者に対する支援体制は先進国に比べると劣っている。
極論だが、障がいを持った人に残された道は「パラリンピックの選手になる」こと以外にないのではないだろうか?
だとすれば、パラリンピックで中国が圧倒的な力を発揮するのも頷ける。選手層の厚さと選手の必死さが全く違う。
オリンピックやパラリピックで素晴らしい成績を上げるのは誇らしいこと。しかし、その背景にもしこういう理由があったのだとすれば、少し複雑な気分になる。
どんな理由があるにせよ、国の支援でメダルが取れるというのは選手にとって喜ばしいことだし、結果が出るなら良いのかもしれない。だが、その陰に「結果が出なかった選手」が沢山いて、その人達がどんな暮らしをしているのかを考えると少し憂鬱になる。
スポーツに限らず、運や才能に恵まれなかった人は沢山いる。オリンピックやパラリンピックの栄光の陰にも、もっと注目してみるべきなのかもしれない。
推測と偏見に満ちた駄文で申し訳ありません。
ここは違う。実はこういう事情がある。など、何かご存知の方がいれば、ご教授頂ければ幸いです。