熊本地震や東日本大地震で多くの人が「被災者のために何かできないか」と考え、それを行動に移しました。その行動は人それぞれ。ボランティアとして現地に行く人もいれば、寄付をするだけに留まる人もいたでしょう。
しかし時に、「本当にそれは被災者のためになるのか?」と疑問になるような行動もちらほら見受けられます。
ボランティアとして現地に行くにしても、しっかりと準備せずに現地に行って迷惑をかけたのでは本末転倒。また、寄付するにしても寄付先をきちんと確認しないで詐欺団体などに利用されてしまっても意味がありません。
辞書的には「善意のない善行」が偽善と呼ばれますが、時にこうした「思慮の足りない善行」も偽善と断じられることがあります。善意のない善行でも社会にとっては利益になりますし、思慮が足りなくても善意からやっているのなら良い事のような気もします。
偽善は悪いことなのでしょうか?
そんな中でも、「やらない善よりやる偽善」を掲げ、堂々と売名行為を目的とした偽善的な行動を行う団体や人間もいますし、考えるよりもまず行動ということで受け手の状況を鑑みない善意の行動を取る人もいます。
ややこしいかもしれませんが、要するに偽善には「善意がなくてもアクションそのものが善行」であるケースと「善行を目的としたアクションが必ずしも善行になっていない」ケースがあるということです。
「善意がなくてもアクションそのものが善行であるケース」に関しては、確かにやらないよりはマシでしょう。しかし、この場合の善行には常に「意図的な偏り」が生じます。つまり、善行によって企業なり人物なりに何らかの利益が得られる場合に限られるということです。
一方、「アクションが必ずしも善行になっていないケース」は厄介です。この原因が単に経験不足や知識不足にあるのならまだ成長の余地があるので良いのですが、本質的に善意ではなく、行動を起こしてアピールすることが目的だった場合は最悪です。
言ってみれば、「善意がない故に善行にならないケース」と言えるでしょう。
こうした行為は社会的にわかりやすく問題になる典型的な偽善行為であり、こうした行為を行う人の存在によって善行そのものがリスクのある行為になります。例えば、「善意があっても上手く行かなかった」場合、善意がない故に上手く行かなったケースと区別がつかず、偽善として糾弾されてしまうのです。
それでも、「やらない善よりやる偽善」として批判の声を無視して行動しようとします。
確かに。やらないよりはマシなのかもしれません。
しかし、それよりもっと分かりやすいのは「やる偽善よりごく普通の小さな善」です。
別に特別な事をする必要はないのです。被災地に寄付する余裕もボランティアに行く余裕もないのであれば、少しだけ意識して被災地の作物や製品を優先的に買うようにするだけでも、それは小さな善意の小さな善行になるでしょう。
涙ながらに懇願する寄付の勧誘電話に答えて何十万も寄付するのではなく、ネットやテレビで報道されている公的な機関に数万寄付する方がより確実に被災地に届くでしょう。
一日一善という言葉がありますが、ごく普通の小さな善を行うことは結構簡単です。
小さな善は誰にも気づかれないため、感謝の言葉をもらえないこともあるでしょう。誰にも評価されないことだってあるはずです。それでも、「やる偽善よりは確実な善」です。
偽善かどうかで悩んでやらないくらいなら、小さな善を探してみると良いでしょう。